【志苔館(しのりだて)跡】函館穴場観光~コシャマインの乱の戦跡

(1)室町時代のアイヌと日本人

アイヌは北海道に長く住んでいる先住民です。

アイヌ語という独自の言語を持ち、サケやクマなどの自然の恵みを受けて生活していた狩猟民です。

「アイヌ風俗十二カ月屏風」8月海辺鮭鱒運搬之図より

室町時代の14~15世紀、和人と呼ばれていた本州の日本人が道南の渡島(おしま)半島[函館のある場所です]に進出します。

特に津軽の十三湊(とさみなと)の安藤氏の一族が北海道南部に移り住み、道南十二館(どうなんじゅうにたて)と呼ばれる軍事拠点を築いて勢力を拡張させていました。

和人のもたらす漆器や刀剣、米などの穀物と、アイヌの海産物を交易しながら、両者はしばらく平和に共存していました。

ところが、志苔館の近辺の鍛冶屋村である日、事件が起こります。

(2)コシャマインの戦い

アイヌの少年が和人の鍛冶屋にマキリと呼ばれる小刀(鉄製利器)を注文していました。

約束の日に少年が小刀を受け取りに行きますが、できあがった刀は切れ味の悪い劣悪なものでした。

平取町立二風谷アイヌ文化博物館のホームページより

http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/juyo_yukei_minzoku/nah-d-0001.htm

アイヌの少年:おじさん、話が違うよ。

和人の鍛冶屋:研ぎ直すなら、あと五十文必要だ。

アイヌの少年:そんなお金は出せないよ。もういらないから、前金を返してください。こんな刀じゃ、何も切れない。使いものにならない。

和人の鍛冶屋:使えないかどうか、それなら、試してみてもいいんだぜ。

鍛冶屋は少年から受け取った刀で、グサリ、とその胸もとを一突きにすると、少年はバタリとその場に仰向けに倒れ、それきり動かなくなりました。
和人の鍛冶屋:だいじょうぶ。ちゃんと切れる。

和人の鍛冶屋:だいじょうぶ。ちゃんと切れる。

鍛冶屋は倒れた少年のほうへ目を向けてニヤリと笑った。

少年の胸からはドクドクと鮮血が流れ、地面を真っ赤に染めました。

この事件を契機にコシャマインを指導者するアイヌの軍勢が道南十二館を襲うことになります。


コシャマインの戦いはこうして始まりました。

和人の拠点は次々に陥落してゆきます。

志苔館もその例外ではなく、アイヌの襲撃の前に攻め滅ぼされる運命をたどりました。

今回の函館旅行では、このコシャマインの戦い(高校の教科書では、「コシャマインの乱」となっていますが、本ブログでは以下「コシャマインの戦い」と表記します)の舞台となった志苔館(しのりだて)跡を訪ねました。

(3)志苔館跡へのアクセス

●志苔館跡への行き方

住所:函館市志海苔町・赤坂町

バス:「志海苔」バス停 下車 徒歩5分

車:函館市内から25分(駐車場はありません。近くに駐車スペースあり)

下にグーグルマップを貼り付けておきました。

バス便は少ないため、私は市電で湯の川温泉まで行き、そこから歩いて行きました。

時期が12月で積雪のために歩きづらく、雪靴を履いて行ったのは正解でした。

湯の川温泉から約30分歩きました。

着いたときが、ちょうど日没の時間で、志苔館跡の高台から津軽海峡の向こうの山に沈む夕陽が見えました。

最高のロケーションを独り占めする感動は何物にも代えがたい、と思いました。

途中、歩道が凍結していて、冬季に行かれる際は滑りにくい靴で行かれることをお勧めします。

(4)志苔館跡は観光客がほとんど来ない穴場スポット

函館はペリーが来航してから栄えた町で、金森レンガ倉庫や旧函館公会堂、イギリス領事官などの開港関連施設や函館山、新選組の土方歳三が戦った五稜郭など有名観光スポットにはいつ行っても観光客が多く、ゆっくり落ち着いて見学できる環境にありません。

函館には観光に何度も来て、主な観光地には行きつくして食傷気味という方や日本史好きの方、しかもメジャーな新選組ではなくマイナーなアイヌや民族学&民俗学が好きな人にお勧めなのがこの志苔館跡です。

私が訪れたのは、2019年も押し迫った12月29日。年末ということもあって、観光客には1組のカップルを除いて出会いませんでした。

遺跡は地元の有志の方々の協力もあり、きれいに保存、整備されていました。

城跡ということで、高い盛り土がされていて、雪で覆われた坂を上るのに、滑って苦労しました。

上の写真のように、館の周囲には側溝が巡らされていました。

発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・珠洲焼・越前焼・古瀬戸などの陶磁器や中国の古銭が出土している、とのことです。

(5)アイヌ軍の強さの秘密

江戸時代、北海道は蝦夷地(えぞち)と呼ばれ、松前藩がアイヌとの交易権を持っていた。

この松前藩の初代当主松前慶広(蠣崎慶広/かきざきよしひろ)は安土桃山時代の16世紀、奥州南部の豪族九戸政実が反乱を起こしたとき、アイヌを率いて従軍した。

厚岸(アッケシ)のアイヌの首長ションコ

アイヌの発した矢は当たらないことはなく、たとえ薄手でも死なない者はいなかったという。

アイヌは狩りで生計を立てていたので、弓の腕前はそんじょそこらの武士よりもはるかに上等であった。

しかも、矢の先にはトリカブトの毒が塗られていたので、矢が当たったら、かすり傷でも致命傷となる。

コシャマインの戦いで、志苔館は和人の豪族小林氏によって築かれた城館だが、ここに立て籠もった小林氏の一族はアイヌの襲撃に恐怖を感じたことだろう。

弓矢をかついだアイヌの一群は、堀を越え、盛り土を駆け上って、わらわらと攻め寄せてくる。

先陣を倒しても、次から新手の者が続々と攻め立ててくる。

手や足に矢を受けた味方は、傷口から全身に回った毒のために、次々と倒れて、のたうち回り、痙攣しながら、おめき声をあげている。

やがては防戦一方となり、四方にアイヌの軍勢に囲まれた館は逃げ延びる道もない。

もはやこれまで、と自害する者もあとを絶たない。

そんな阿鼻叫喚の地獄の光景が浮かんできた。

ここを訪ねた目的はひとつ。

志苔館で討ち死にをした武士(もののふ)たちの恐怖を追体験するためだ。

美しい夕焼けが血の色に見えてきた。

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